Web制作を行う全ての方へ

Y

拝啓 Y
これを書くことを確認できなかった事をどうか許して欲しい

今回のブログはWeb制作にまつわることでもガジェットに関するようなことでもなく、僕のただの日記となりますことを、予めご了承ください。

Yについて

僕には2つ年下の幼馴染で、親友の友人Yがいる。

彼とは小学生の頃に知り合い、仲良くなった。彼はよく僕の家に遊びに来ては遅くまで一緒に毎日を過ごし、一緒にご飯を食べ、僕の親とあちこちへとよく出かけ、まるで兄弟のように育ち一緒によく遊んだ。

中学一年の夏休み明け、僕は体調を崩して入院することになった。

病気そのものは2週間ぐらいで完治し、退院出来たのだけれど、精神的に病んでしまってすぐに再入院することになってしまった。そんな中、彼は毎日学校が終わっては僕の病室へ足をはんこんでくれた。

僕はあの頃外を出歩くのすら恐怖に怯えるような精神状態で、まともに出歩くことが難しかった。いわゆる対人恐怖症というやつである。

学校に行っても馴染めない、楽しめない、人と話すのがストレスで、今でこそ社交性のある性格とよく言われるけれども、当時は真逆の性格で、うまく会話が続かないし、相手の事もわからないし、知りたいと思わないような人間だった。

この病気とは入院した以降も、定期的に病院へ通ってようやくまともになれたという、非常に厄介なものだった。

しかし、彼ともう一人のMという友人(彼は僕と同い年で幼稚園からの幼なじみ)だけは、毎日顔を出しに来てくれて、彼らがいる間はすごく冷静に過ごすことができ、退院後彼らとは他の友人とは違う関係になれたと思う。

そんな毎日を過ごしている中、ある日からYと連絡が取れなくなった。

家に行けば会えるという少年時代だったけれど、どうも様子が違い、家の中に誰もいないという状況が気がつけば数ヶ月ほど経過していた。

その数カ月後、確か彼が僕に家に来たのだったと思う。

何があったかは割愛するけれど、今は祖父母の家で3人で暮らしているとのことで、祖父母の家も近かったこともあり、また毎日いっしょに過ごすという毎日が戻ってきた。

また遊べるというのが嬉しかったことを僕は今でも覚えている。

MはYよりも複雑な家庭環境で、中学生だったけどほとんど学校には来ず、父親と一緒に鉄工所で働いていたので、僕らは学校が終わると彼の家に居るかを確認しに行き、いればだいたい僕の家で遊ぶという日々を繰り返していた。

中学3年になり、僕とMは3年、Yは1年となり、当然僕とMはこれからの将来をどうするかを考える時が来るのだけど、僕は高校へ進学、Mはそのまま社会人になって妹を養うという選択をすでに決めていた。

Yは陸上部に入ったけれど、だんだん部活へは足を運ばなくなり、学校が終われば僕の家に来るという毎日になっていた。

彼とは一緒に育ったせいか、趣味や思考が凄く似ていて、読む本、好きになるアニメ、聞くラジオ、好きなゲームなどほとんどかぶっていた。

僕自身ゲームがすごく好きだったので、ほぼ毎日一緒にゲームをして過ごしていた。

当時はスーパーファミコン、ゲームボーイが主流で、メガドライブなんかもやっていたと思う。TRPGというアナログのRPGがあるのだけど、それも飽きもせず夜通しよくやっていた。

受験勉強をろくにしないままで僕は無事高校生になり、彼は中学校生活という日々に変わったけれど、僕らの関係は変わること無く、学校が終わればまっすぐ家に帰り、彼や他の友人と過ごす毎日が続いた。

Mは社会人になったけれど、あまり仕事が長続きせずで、仕事をしては辞め、仕事をしては辞めを繰り返していた。

働いてることも有り、僕らとは生活のリズムそのものが違っていたので、僕らの方へ来る回数は減ったけれど、それでも時々うちに来てはくだらない話をして盛り上がっていた。

僕が高校2年になり、Yが中学2年になったころ、これからどうするのか?という話になった。

僕は卒業したら実家を出てゲームソフトを作る勉強をするために専門学校へ行くというのを子どもの頃から決めていたのでその道へ。

Yは学校が好きではないらしく、卒業したら働くという選択を僕らに述べたのだけれど、それに対してMが口を出した。

「俺はこんなだから学校なんて行けなかったけど、YATや他のやつを見てて、俺も学校行ったらよかったなって思うことがよくある。だからYは、もし学校に行くという選択ができるなら、お前に学校に行きたいっていう気持ちが少しでもあるなら、お前は絶対学校に行くべきだ。」

と発言した。

Yは神妙な顔つきをして凄く悩んでいた・・・。

それから僕は高校3年になり、Yは僕と同じ高校へ新一年生として同じ高校へ進学した。

僕は友人のSというやつと一緒に自転車通学をしていたのだが、Yはそれに合わせて僕らと一緒に自転車で通学する事になった。

彼は学校に入ってから、漫画研究部を友達と作ると意気込んでいた。僕は部活には入っていなかったので、同じ学年の友人KとTと一緒にその部活へ入ることにし、1年間その部活で楽しく過ごした。

その1年間はものすごく濃いもので、この頃に仲良くなった友人が複数居るのだけど、彼らの殆どは今でも一緒に遊ぶぐらい仲が良く、いい関係を保っている。

おそらくこれが一生の友人なのだと思う。

それから僕は高校を卒業し、昔から決めていたとおり、実家を出て神戸でこの友人Kとルームシェアするようになる。

ただ、Kはすぐに学校を辞めて大阪へ帰ってしまい、僕はそこから一人暮らしをするようになった。

神戸と大阪という距離はあったけれど、YはちょくちょくMの車で僕の家に遊びに来た。

仕事や学校が終わってからになるので、だいたい夜に来てドライブに出かけ、遊んで帰るというのが定番になっていた。

専門学校卒業間近、彼は高校卒業間近だったけれど、僕は卒業したら別の道へ進むと決めていたけど、具体的に何をするかは決めていなかったのでフリーターに、Yも専門学校に行きたいけれど、お金がないからとりあえずフリーターをすると決めていたので、お互いフリーターかーとかいう話をしていた。

しかし、それからYの父親がお金を出すからという申し出があり、Yは自分が行きたかった専門学校へ、1年遅れであるが進学することになる。

それから専門学校を卒業し、僕らは話し合った通りの生活になっていく。それでも僕らの関わりは変わること無く、何年か同じ事を繰り返した。

20歳を超えたある日、僕がタバコを出すと、Yが「何でそれ吸ってんの?(笑)」って言ってきた。

僕はそれの意味をすぐには理解できずにいたのだが、彼がポケットから出したものを見て納得した。

僕はJPSという黒いパッケージのタバコを吸っていたのだけど、彼もまた同じタバコをたまたま吸っていたのだ。

ふたりとも黒が好きだから凄く納得なのだが、それでも離れて過ごしているのに同じタバコを選択するというのは2人で面白いと言って笑ったのを覚えている。

その日以来僕はずっと煙草の銘柄を変えていない。

それから何度か神戸に来たある日、僕の家で遊んでいるとYの携帯に着信があった。

Yは非常に深刻な顔で、電話を切った後もすぐに発言をしなかった。

僕が「どうした?」と聞くと、Yは「じいちゃんが亡くなったって。でも、あっても会話もなかったし、なんて顔していいかも、何を言っていいかもわからない。だからいい」と言ったのだけど、Mが「おい、帰るぞ。お前は今冷静じゃないやろ?とりあえずこんな時は帰るねん。嫌でも連れて行くぞ。」と言ってYの家へ帰った。

僕は「俺も身支度して明日の朝一帰るから」とつげ、翌朝まっすぐ実家へと帰った。

実家へ帰ってもYはおそらく今バタついてるだろうから、連絡だけいれて、葬儀場へ夜行くと言ってその時は電話を切り、共通の友人とともに夜葬儀場へ足を運んだ。

葬儀場につくとYは丁度外に出てきていて、僕を見つけるなりまっすぐ走ってきて、僕に抱きつきながら

「じいちゃんがほんとに死んでしまった。」と号泣した。

僕はそれに対して「うん」としか言えず、なんとも言えない感情になるしかなかった。

葬儀を終え、Yの元彼女が居たので、最近どうだったかという話をした。

彼女はYと高校1年から同じクラスの同級生で、彼はその頃からずっと彼女のことが好きだった。

しかし当時は付き合うことが出来ず、卒業してからまもなくして付き合いだし、その当時に一緒に遊んだこともあった。だがそれは長くは続かず1年ほどで別れたとの事だった。

僕たちはそれからいろいろな話をしてお通夜、お葬式をおえ、それぞれの生活に戻った。

それからしばらくして、僕は自分のこれからを考えるようになる。ゲーム制作会社を卒業はしたが、その道に進むきはこれっぽっちもなかった。じゃあどうするかと考えていた中で僕は一つのことを思い出した。

専門学校時代、美術の先生が休養を取ることになり、代わりの授業のひとつとしてHTMLを学ぶ授業があった。

この先生がちょっとクセのある面白い先生だったのだが、それにも増して授業内容自体が凄く楽しかったことを思い出し、やってみようと独学で勉強を始めた。

その中で僕はこれをやることがとても楽しく、これを仕事にしていきたいと考えるようになり、本格的にこの道へ進むことを決心して、改めて専門学校へ通うお金を稼ぎながら、神戸にある制作会社へ勉強しに行く毎日を過ごしだす。

僕はこの頃あまりに忙しく、生活のお金も殆ど無かったので、実家へ帰ることもあまり出来ず、毎日のご飯もちゃんと取れないような日々を過ごしていた。その為Yと直接会うことがかなり減っていった。

それでも時々電話やメール、ICQなどで連絡はとっていたので、お互いの近況は知ることが出来たし、Yは専門学校を卒業してから、共通のSという友人の家に毎日行ってるとの事だったので、楽しい毎日を過ごしているというのはわかっていた。

それから数年、僕はWebデザインの学校を卒業し、就職が地元で決まったので地元へ帰ることになり、昔のようにまたYとよくつるむようになった。

僕はその会社でひとまず2年努めて、制作会社へ転職と考えていたので、2年後転職したのだけど、体調を壊してしまいすぐに退社する。しかし、これからどうするかという問題があったので、色々な人に話をしていた所、前職の社長の友人である方が個人でネット販売をしていたので、その人の手伝いをすることに。

その人は僕の体調も理解してくれて、凄く良い環境で働かせてくれた事に今でも感謝している。

Yはというと、専門学校を卒業してから印刷会社でずっと働いていた。しかしあまりにも安月給で、給料が上がることもなく、かなり酷な状況だったので、一緒に働かないか?という提案をした所「是非」という返答があったので、お世話になっている社長へ相談し、こちらも「是非」という話が出たので、そこから一緒に仕事をするようになる。

それから毎日、仕事をしてはうちへ来て遊ぶという日が続いた。

それこそ四六時中毎日一緒という毎日だった。

しかし、これもそう長く続かず、この事業そのものがあまりうまく行かなくなってきた。

そういう話が社長から出てきたので、僕はもうここを辞めて就職活動をしようと決め、Yも同じくして辞めて転職活動することとなる。

僕は制作会社やネットショップとはちがう、割と大きな会社へ転職する事になり、そこでWeb担という形で働き出した。

そして、この頃からこのブログを始めることになる。

最初は今のようなWeb制作向けのブログではなく、特にこれという方向性はなかった。

当時はスマートフォンの情報とかをただ流すだけのブログだったのだが、それでも続けているとアクセスは少しづつ増え、そのアクセスが増えることを、僕以上にYはとても喜んだ。

僕達共通の友人に会った時、僕がブログを始めたという話をすると、僕の言葉を遮り、Yはまるで自分のことのように「YATのブログってすごい!アクセスこんなにある!アクセス数見せてあげて、ほらこれ!」と、凄く騒いでいた。

僕は素直にそれが嬉しかった。それを言われてから、ブログをますます頑張った。サイトのデザインを変えてはYが「おお、格好いい!すごいな!」といってくれた。

ブログを続けるモチベーションは何ですか?と聞かれることがあるけれど、僕はいつもそういう時アクセスが増えることや、書いた記事に反響がある時、反応がもらえる時という。それ自身は嘘ではないが、一番のモチベーションはこれだった。

僕はこれがあるから今でもブログを書き続けられている。

そして仕事の方もやることが徐々増え、凄く忙しくなった。

帰るのも遅くなり、友人と会うことが難しくなっていた。もちろんYとも。

Yは仕事が決まらないまま1年ほどが経っていた。

よく遊びに行っていたSの家にも最近は行ってないとの事だった。

そんなある日Mから電話があった。

M「もしもし、暇ー?」

僕「割と忙しいけど、どうしたん?」

M「最近Yが元気ないみたいやから、またドライブせーへん?車買ったし。」

僕「ああ、いいねいこう!仕事終わったらすぐ帰るわ。」

僕は久しぶりにMと会い、Yを迎えに行った。

しかし、Yは凄く暗く、こちらから会話してもどこか上の空のような感じで、はっきりとした返事があまり返ってこなかった。

Mも「げんきねーなあ、もっと元気出せ!」と言っても、「うんー」という返事しか帰ってこず、Mと顔を合わせて、ほんと元気ないなという事を話した。

僕らは夜の道を走り、海遊館の方へ来た。時間は深夜でほとんど人はおらず、真っ暗な海を見ながら他愛もない話をした。

しかし盛り上がるようなことはなく、時間だけが過ぎていった。

僕は中々決まらない仕事と、おそらくそれがあって居づらい祖母の家がしんどいのだろうなと思っていた程度だった。

それから2週間ほどしたある日、Yの妹から着信を受ける。珍しいな?と思って電話にでると

「お兄ちゃんがかえってけーへんねん。どこおるか心当たりない?」

と聞かれた。「僕は最近忙しすぎてYと会えてないからわからないけど、他の友だちに聞いてみる。」と言って電話を切った。

僕はすぐさま思いつく限りの友人に電話したがどこにも行ってないらしい。

ただ、Sの兄が「よく行ってる店があって、そこの店員とも遊ぶぐらい仲良かったから、そこかなあ?」といったので、そこに行ってみるかとなったが、その日はすでに時間も遅く店も閉まっているだろうということなので、翌日に行こうと決めて電話を切った。

翌日、仕事が終わり、僕はその店に向かうべく自転車を漕いだ。

11月の終わりごろで、外は寒く暗い道をひたすら漕いでいた。

そんな時K(ルームシェアしていた友人。この時は東京に住んでいる)から着信があった。

僕「もしもし?」

K「もしもし。YAT?今どこに居てる?」

声が上ずったような印象を受けた。

僕「今、Yが居るかもっていう店があるみたいで、そこ行こうって約束してるから家向かってる所」

K「そうなんか、もうそれ意味ないからいいで。」

僕は意味がわからなかった。ただ、彼は正常ではないようなしゃべり方だった。

僕「え?どういうこと?」

K「Y、亡くなってる・・・」

僕「え?え?どういうことなん??」

K曰く、前日の報告を受けて、ものすごく嫌な予感がしたらしい。ダメとわかっていたけれど地元の警察へ身元不明の遺体がないかの確認を取ったらしい。

その中で、警察からの返答は嫌な予感通り届いていて、実際の確認はご家族の方へという話だったので、Yの実家の住所を伝えたらしい。

その流れから、警察はYの自宅へ向かい祖母へ間違いないと確認をとったとの事だった。

K「そういうことやから、俺今からそっち戻るから、YATも皆に伝えて。気をつけて帰って」

僕「わかった、Kも気をつけて。」

といって、電話を切った。

そこからは頭が真っ白で、ひたすら自転車を漕いだ。

信じれなかった。その時はそれでもまだ信じれなかった。

きっと何かの間違いで、実際はどこかにうずくまって座り込んでるんじゃないか?と思った。

僕は家についてから、共通の友人の美容師と共に警察へ向かった。

そこで霊安室へ通され、顔を確認した。

何も言えなかった。ただ、Yで間違いなかった。

彼の顔がとても青白くなってそこに横たわっていた。

頭は真っ白になり、何を言ったかも今は覚えていない。

霊安室を出てすぐ美容師の友人が泣き崩れた。

「なんでだよ!!!」

と。

それから警察署の方で、亡くなった時に持っていたものを見せてもらった。

  • 一緒に働いていた時に買った赤いGショック
  • JPSのタバコ

それだけだった。免許証を入れていた財布もなかったので、身元確認できるものが何もなかった為ここで安置されていたが、もし発見が1日遅れていたら、身元不明で処理され、ここからも遺体はなくなっていたとの事だった。

この後遺体は実家へ送られることになるのだが、Kが警察への確認を入れてくれていなければ、それも叶わないところだった。

それからお通夜をする事になったので、僕は会社へ数日の休みをもらい、出来る限りのことを手伝わせてもらった。

妹と話をしていて、Yは亡くなる前、一度家に戻っていることが分かったという。

財布の中を確認した所、なくなる1時間前ぐらいのレシートが入っていて、そこには彼が大好きだった、いちごオレとロールケーキの2つだけが記されていた。

僕は心苦しくなった。何故無くなる前に口にする物がその程度ものなのか?

もっとあっただろう?食べたいもの。

お肉好きだったじゃないか。

もっとすることあっただろう?

最後だぞ??

なんで財布をわざわざ置きに来たんだ? 身元を発見されて心配されたくなかったからか?

何故連絡を入れなかったんだ? いつでもうち来ていいって言ってたのに。

何で僕は2週間前、もっと親身にならなかったんだ?

何で僕はもっと一緒にいなかったんだ?

何で僕は遊びにこなかったんだ?

何で僕は・・・

僕の頭で何で?どうして?がずっとずっと回り続けた。

それでも僕は泣かなかった。涙は出なかった。

お通夜の時、前述したYの元彼女から連絡があった。

元彼女「Yが亡くなったことを聞いた。行きたいけど、私が行って良いのかわからない。とってもひどいことをしてきた。許されることじゃないし、私もされたことを許したわけじゃない。でも、今はとにかく行きたい。でも、きっと妹やおばあさんからは来てほしくないって思うと思う。」

僕「俺は来たら良いと思う。Yはずっと、ほんとにずっと君のことが好きだった。何があったかは僕も知ってる。でもYが君からもらった香水をずっと持って大切にしてることを知ってる。だから僕は来て欲しい。でも妹の意思は俺とは違うから、聞いてみる。」

妹に確認し、確かお通夜はいいという話だったので、お通夜だけ彼女は線香を上げに来た。

それから夜が明け、お葬式になった。

何の滞りもなく式は進行した。その間僕は何も考えられず、ただこの式をしっかりやろうとだけ考えていた。

「では、皆さん花を入れてあげてください。」

皆で棺桶に花を入れる。最後に妹が

「これ、最後にメッセージつけていれるねん。」

泣きながら彼女はそう言い、僕にそれを見せてくれた。そこにはこう書いてあった。

ありがとう

花にはそのメッセージが添えられていた。僕はそれを見た瞬間何かが折れ、初めて泣いた。号泣した。

僕は思い出した。入院していたあの中学の時、毎日遊びに来てくれたYを。

その時伝えられてなかったと。

ありがとうって。

僕は心の奥底からこみ上げるものが我慢できなかった。止めることができなかった。

ただ、ひたすら泣いた。

KOKIAさんのありがとうという歌がある。

彼が僕に凄く良い曲だからと言って進めてくれた曲なのだが、僕はこの曲を未だ聞けていない。

後で聞こうと思ってその時はそのまま忘れてしまっていたのだが、今はきっとこれを聞くと泣いてしまうと思って、未だに聞けていない。

式は無事に終わった。

彼が何故命をたったのかは不明で、突発性のものなのかもしれないし、考えての事だったのかもしれない。

ただ、今思えばあの時、なくなる2週間前にあった時の状態はうつ状態だったんだろうなと思う。

僕はこの日からYの夢をよく見るようになった。

一緒に遊んでいる夢、何かを話している夢、時々それが夢なのか現実なのかわからないこともある。

でも、それが怖いとかはなく、ただ嬉しく感じる。その時だけはYに会えるから。

あとがき

僕はこれを書こうと思ったのは彼が亡くなって少ししてからでした。

しかし、当時は書く目的が見つからなかったし、これを書いて周りがどういう反応をするかもわからずで、ずっと書かずに来ました。

きっとこれを書くときはこのブログを終わらせる時かな?とも考えていました。

しかし、最近考え方が変わってきました。

僕があの2週間前に戻ることができたら、きっと何らかの行動をとっていたと思います。それが果たしてYを救えたかどうかはわかりません。

残された人間には「何故?」ということばかりが出てきてしまい、それがストレスになるのは間違いないと思います。

もし、そういうストレスを抱える人や、その周りの人がこれを読んで何らかの行動ができ、もしもですが、誰か1人でも救うことができるのなら、このことを書いて良いんじゃないか?と思うようになりました。

心の病は簡単には治らないです。僕自身がそれは知っています。でも、それを治すのに周りの助けがありがたいという事も知っています。

そんな僕だから、これを書こうと決意しました。

もし自分の周りにそういう人が居たら声をかけてあげて欲しいです。

家族、友人、恋人、そういう人が悩んでいたら力になってあげて欲しいです。

すべてを救うことは出来ないけれど、それでも救われる人はきっと居ます。

僕は今でも後悔しています。きっとこれは一生消えないと思います。だからこそ、僕は今自分にできることをやって生きています。

※今回書くにあたりご家族の了承を得ています。ありがとうございました。

お役に立てたらお願いします🙇

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